それにしても遅い、と回廊の向こうを見やる。
もう四半刻は経つだろうか。
それも気にし始めてからの時間だから、最初に立ち去ったときから計ればその倍ぐらいにはなるはずだ。
さては今日もか、とため息を漏らし、夏候惇は自分が眺めていた先へと足を向けた。

 

 

装い時

 

 

 

「殿、こちらはいかがでしょう?」
「うむ・・・・・・・・だが先程の方がわしの好みではあるな・・・」
本人の意向を無視されたやりとりに、 は正直ため息を尽きたくてたまらない。
が、今目の前にいるのは自分より遥かに高貴の方々。そんな無礼はそう簡単には許されまい。
とはいえ流されるのも の本意ではない。恐る恐る口を挟む。
「あの・・・・・」
「おお、やはりお前もこちらの方がよいか?
「いえ、そうではなく・・・・・・・・やはり私には必要のないものかと」
「何を言うか。わしはお前にこそと言っておるだろう、今日こそはわしの思う通りにしてみせるぞ」
妙に意気込む君主を前に、 はため息を押し殺した。



いまや中原の覇者となり、乱世一の雄である曹操は、良くも悪くも我が強い。
才気溢れる冷徹な男かと思えば、気に入りの部下には情の厚いところを見せる。
詩を愛する粋な男というのは確かだが、趣深さを愛するが故に突拍子もないことをやってのける一面もある。
一人の女性を欲したが故に己の身を危険にさらし、忠実な部下を失った話はあまりに有名だ。
腹心の部下になればなるほど、そういった曹操の性癖に振り回されることが増える。
命を失うことは稀であるにせよ、その犠牲になる臣下にしてみればありがたくない話であることは間違いない。
たった今その犠牲者となっている にとっても、それは等しく変わらない。


(いいえ、一軍を任される身ですらない私に気をかけて下さってるんだから、有難いと思うべき)
は夏候惇付きの将である。
女性の身ながら武に優れ、一兵卒として曹操軍に身を投じて戦場に立ってきた。
早いうちからその才を夏候惇に見出され、以来彼の指揮下で数多の死線を潜り抜けてきた。
曹操が魏を興し、夏候惇が魏国第一の将となるに従って、 の名も今では広く知られている。
隻眼の魏将に沿う剣姫、と言えば、誰もが「ああ」と頷くほどの存在だ。
であるからして、主君たる曹操がその存在を知らぬはずはない。
そして知っている以上放っておくはずはないのである。


最初は室にと言った。
だが自分はあくまで武人であると言い切った の誇り高さを知り、潔く諦めた。
その代わりに始まったのが『これ」である。
「殿、幾度も申し上げております通り、私は武将です。しかもいまだ軍議に参加することも適わぬ身。主将の皆様を差し置いて御物を賜ることなど何故できましょう」
「お前のこれまでの功を考えれば、これくらいでは報い切れぬわ。お前のたっての希望で今の地位に留めてはおるが、本来我が将の中で五指に入るほどの位を得ていてもおかしくはないのだぞ」
「過分なお言葉、痛み入ります。ですが私はそれが自分に相応と心得ております。ですのでこのような形で恩賞を受けるのはやはり分不相応かと」
「恩賞として授けるのではない。公の場に立つことも増えたと言うに、いつまでも武人のなりということもなかろうと言っているのだ」
「私は武人でございます」
「武人とてそれなりに装うことも必要であろうが」
「・・・・・・・・・私の身分では、このなりが相応かと」
「身分などと言っている場合か、見栄えを考えよ見栄えを」

・・・・・・つまりは。
を着飾らせることに熱心になり始めたのである。
英雄色を好むという言葉に違わず、曹操は美しい女性を愛でる。
権力に任せて奪い取った例も少なくはない。 はその意のままにならなかった数少ない一例である。
だが、振られたからといって邪険にするほど彼は器の小さい男ではない。
曰く、「美しいものには美しいなりを」と、配下の某武将のようなことを言い出して、 をとっ捕まえてはあれを着てみよ、こう装え、それを着けろとしつっこく言い始めたのだ。
も最初は戸惑った。
女官に「曹操様直々のお召し」と言われて御前に上がったら、色とりどりの衣をずらりと取り揃えた曹操が執務室で待ち構えていたのだ。
その華やかさは後宮の箪笥もかくやと思われるほど。
武人としての自分が着るものではない、動きにくくて日常の調練にも差し支えると言い訳してそのときは逃げ出した。
だが曹操もさるもの、今度は機動性を意識した衣を用意させて呼び出す。
布や絹は耐久性に欠けるのでと言い訳すれば、細々した飾り物を揃えてきた。
戦場で落としてしまうかもしれないからと言い訳しても、まるで気に留めてはもらえない。
『その時はまた別の物を着ければよかろう』と涼しい顔をされるばかり。
確かに今の曹操の勢力・権力及び財政力を考えれば、女性の装身具などそう惜しくもないものだろう。
言い訳すればするほど、次に呼び出されるときはその理由を補うように改良されてしまって反論の種が減ってゆく。
そうこうするうちに女官の呼び出しそのものをうまく逃れる術を身につけた だったが。
(やられた。今回ばかりは、逃げられるわけがない)
そっと曹操の脇に控えている女性を見やる。
彼女は と目が合うと、にっこりと妖艶な笑みを浮かべた。
「心配なさらなくても、この甄姫が見立てたのですもの、きっと 殿に似合いますわ」
「似合うとか、似合わないではなくて、ですね・・・」
はがっくりと肩を落とす。

今朝の調練の途中、厠に立ったところでこの甄姫と出会ってしまったのが運の尽きだった。
いや、出会ってしまったというより待ち構えられていたのだろう。
『殿がお待ちですわ。なんでも私と貴女に御用がおありとか。せっかくですもの、共に参りましょう?』
微笑を湛えての彼女の誘いを断れるはずもない。
位で言うなら彼女は一軍を任される主将の一人。そして嫡男・曹丕の正妻でもあるのだ。
魏将にとっては仕えるべき主の血に連なる者。 ごときが抗える相手ではない。
彼女は笑顔を湛えたまま、小さく首を傾げてみせた。
殿。武人とはいえ、貴女はれっきとした女性。女性が美しく装うのは権利でも義務でもありますわ。血腥い戦場に華を添えるのは私たちの役目だと思いませんこと?」
「魏の戦陣には既に甄姫様という華がおありです。私ごときが装ったところで、その華の前では霞んでしまいましょう」
「まあ、嬉しいことを言って下さるのね。けれどそれは貴女の心得違いというものですわ」
甄姫の笑みがますます妖艶さを増す。
「華の色は一つ、と決まっているわけではないでしょう? 貴女ならば私と違う色の華になれますわ」
「甄姫の言うとおりだな。華は多ければ多いほど良い。兵の士気も上がろうというものだ」
「・・・・・・・・華ならば張コウ様が」
「あれはまた別だ」
苦肉の言い逃れも通用しない。
さてどう逃げたものかと、 はいよいよ言い訳に困る。


と、そのとき、 にとっては神にも等しい救いが現れた。


「やはりお前の仕業か、孟徳」
執務室の戸口に現れた部下を目にして、曹操は露骨に舌打ちした。
「なんだ夏候惇。お前は呼んでおらぬぞ」
明らかに安堵した様子で自分を見つめる に一瞥をくれたあと、盛大なため息をひとつついて夏候惇は部屋の中へと入ってきた。
「呼ばれたつもりもない。いい加減俺の部下で遊ぶのはやめろ。迷惑だ」
「お前の部下であれば、すなわちわしの部下でもある。だいたいお前にも責任の一端はあるのだぞ」
「なにがだ?」
「見よ、上司のお前が無骨者の所為で、 はあたら女ざかりをろくろく磨きも飾りもせずに浪費しておるのだ。上司として部下のことを思うならば、華美な装いをせよという命のひとつもしてやるのが筋というものだろう」
「俺の部下に派手な飾りなど要らん」
「まあ、それはあまりなお言葉ですわ、夏候将軍。 殿は貴方の部下である前に、一人の女性ですのよ?」
美人に咎められるとひどく堪えるものだが、夏候惇にそんな様子はない。
真っ直ぐ彼女を見据えると短く言い放った。
はこの俺が認めた武人だ。それがこれの本質でもある」
それ以上二人のが言い募るのを一切聞かずに、困惑する へと向き直る。
「戻るぞ。調練がまだ終わっていない」
「・・・はい。・・・・・・・殿、甄姫様、これで失礼させて頂きます」
これ幸いとばかり、 は早くも執務室を後にしている夏候惇の背を足早に追いかけた。







回廊の外れまで歩ききったところで は先を行く彼に話しかけた。
「ありがとうございました」
「礼など要らん。まったく、孟徳の悪癖にも困ったものだな」
「・・・ですが、悪意でなさっていることでは・・・・・・」
「悪意でなければ良いというものではなかろうが。現にこちらは迷惑を被っているのだ」
いつの間にか、その迷惑の当事者であるはずの が曹操を庇う形になっている。
それほど、夏候惇の不機嫌ぶりは表に出てしまっているのだ。
ついくすくすと笑みを零すと、彼は耳聡くそれを聞きつける。
「何が可笑しい?」
「いえ・・・」
否と答えながら笑顔は消さない をちらと横目で見やると、夏候惇はまたひとつため息をついてから不意に足を止めた。
「夏候惇様?」
つられて も足を止めて、振り返った顔を凝視する。

「良いか 。お前が女の顔をするのは俺一人の前でだけでたくさんだ」
どういう意味か、わかるな?

微かな笑みと、その眼に浮かぶ意味を悟った はみるみるうちに顔を赤くした。








end





2005・11・3




楽 し か っ た ・ ・ ・ !!!


絵茶でのお近づき記念に、月ヶ瀬銀牙様から「さりげなく優しい惇兄」というリクを頂きました。
・・・れ?もしかしてリク達成は、して、ない・・・?(汗)
曹操様と甄姫様の魔手(笑)からさりげなーく助けてくれる惇兄・・・・・のつもりだったんだけど。あれぇ?

曹操様と甄姫様。魏の最強タッグだと思います(笑)
そんな二人に堂々と白手袋投げつけた夏候惇様は、この後ねちねち地味ーに苛められるといいと思います。
救援要請シカトされるとか(<それ命に関わるって/笑)

月ヶ瀬様、もとい、月ちゃん、お待たせ致しました!!
リクにこたえるというより、自分が楽しんで書いてしまいましたが(汗)、お気に召したら嬉しく思います。
最後の惇様がさりげなくタラシ風味なのは間違いなく月ちゃんの影響です!(笑)
どうぞお持ち帰り下さいませ。書き直しは常時受け付けております!


涼風コメント

う、討ち取られま し  た…ゲフ(吐血)
ソソ様に着せ替え人形にされてるのも美味し過ぎて思わず顔が緩みました。
そんな迷惑なら喜んでかけられますって!(笑)
僕はソソ様に振り回される展開が思いの外好きな様です。甄姫姐さんに微笑まれたら思わず流されそうだしね。
そして助けに来てくれた惇兄!
ああ、「行くぞ」と言われて惇兄の後ろをひょこひょことついて行きたい…!
不機嫌になっちゃってる惇兄も愛しいよッ。ふふふvv
で、最後の一言に討ち取られましたさ。
えぇ、もう、さり気なく言い含まれているであろう独占欲みたいなのにときめいたさ!
って、僕、そんなにタラシの波を起こしてたのか(笑)
騒ぎ過ぎてんのかな?タラシタラシ言い過ぎ?いっその事、このままタラシ布教活動に勤しみますか(ぇ)
ほんっとうに有難う御座いました!!